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ザ・ガーディアン
Arts Friday Review
January 28, 2005


Who's back


 彼、ロジャー・ダルトリーは、マス養殖(注:アメックスカードのCFでマスに餌をやりながら、Do you Know Me?とやって、Peteにあいつは昔からあんな奴だったんだとバカにされた)や、ミミズ養殖や、チャリティ活動に手を出したが、結局ロックから離れることはなかった。23年ぶりの新譜を共に制作中の、長年の喧嘩相手ピート・タウンゼントとの関係についてデイブ・シンプソンに語った。

  ロジャー・ダルトリーは、彼とピート・タウンゼントとの間でしばしば交わされた言い争いの一例を覚えていた。それは1973年のこと。ザ・フーが四重人格の映画のためにLove Reign O’er Meの撮影をしていたとき、ダルトリーは映画のクルー(彼らはピートの友人だった)が、ただ座ってなんの撮影もしていないことに気付いた。ダルトリーは「とても不愉快だったので」と歪んだ声で言った。「ギタリストに文句をつけた」。 「そうしたら奴はギターで俺の頭を一撃したんだ」。ダルトリーは思い出して笑った。「そのとき俺は2人のローディーに羽交い絞めにされていた。彼らは俺が文句をつけた後にどんな行動に出るか知ってたからね。だから俺はピートに殴られるがままさ。で、俺は言った。"上等じゃねえか、後は何がお望みだ?"そうしたら奴はローディーにこう言ったんだ。”そいつを放せ。でなきゃ俺は殺すまでそいつを殴っちまうぜ”」。 ギタリストにとって不運なことに、ローディー達はそのシンガーを解放した。「一発殴ったら、奴は床に伸びた。でも、もの凄くおかしな話さ!5分後には、俺は救急車の中で昏睡状態の奴の手を握って、”ごめんピート、そういうつもりじゃなかったんだ”って謝ってたんだ」 この一件の皮肉な結末がまた面白い。「そうだろう?もしクルー達がカメラを回していたら、映画の中で一番面白いシーンになってたのにさ。撮ってなかったんだから。はははは!」

 それから32年後の今、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントはもう殴り合いをすることはない。1982年以来の新譜制作のため、彼らはロンドンにあるタウンゼントのスタジオに昨年12月からこもりっきりだ。ファン達は、彼らが昔と同じように言い争いをしているかどうか知りたいだろう。「一言だけ。俺たちはいつでもお互いが気に入らないんだ」。 これこそ、この前代未聞の偉大なブリティッシュ・ロック・バンドが生まれた原動力だ。確かにビートルズはザ・フーより有名だし、ストーンズはおそらくザ・フーよりセクシーだろう。だが、ザ・フーの爆発力にはどのバンドもかなわない。My Generation(不朽のスローガン、”I hope I die before I get old”はこの曲の歌詞に含まれている)のような曲は、機材の破壊と過激な行動−ドラマーのキース・ムーンはグラスゴー・ホテルのロビーにロールス・ロイスで突っ込んだ−といつもセットだった。 タウンゼント−中流階級でアートスクール出の知性派−は、疎外感と絶望を曲にした。ダルトリー−反抗的だったために退学させられた、不機嫌な旋盤工−は、男らしさや権威に対する疑問、痛みなどの感覚を的確に引き出し、それらに息吹を与えた。「奴には俺の頭の中が判るし、俺にも奴の考えが手に取るように判るんだ」。ダルトリーは彼らのパートナーシップをそう表現した。 タウンゼントの過激なウィットがダルトリーを激怒させることはあった。しかし、彼が暴力を考え直す直接の要因になったのは、ムーンとの諍いだ。1965年、ドラッグがバンドのパワーを減退させていると思ったダルトリーは、ムーンの薬をすべてトイレに流してしまった。ムーンはタンバリンで彼を殴ったが、逆にボコボコにされた。そしてダルトリーはバンドから追い出されてしまった。 彼はバンドに戻るのだが、「たくさんの条件付きでね!まいったことに、俺は全人格を変えなきゃならなくなった。でも、俺も彼らを殴る自分が嫌いだった」。暴力の代わりに、彼は怒りをすべて歌に込めるようになり(1973年の事件は彼曰く「正当防衛」)、ザ・フーは更にパワフルなバンドになった。

  実はダルトリーはザ・フーについて語るためにこのインタビューを受けているのではない。彼はこの30年間のソロ作品アンソロジー「Moonlighting(内職)−ソロ作品はすべて休みの日に作ったので−」の宣伝に来ているのだ。そのうち何曲かは彼の役者としての素晴らしいキャリアからもたらされた。1989年に彼がブレヒトの三文オペラで演じた役は、コックニー訛りのMack the Knifeを生み出した。名曲Free Meは映画「McVicar」−彼は、刑務所のシステムと戦う悪評高い元犯罪者の文筆家の役を見事に演じた−を土台にしている。「John McVicarは疑う心を持っていた。でも、人生をすべてそれだけに費やしてしまった。彼は解き放たれるのを待っているバネのようだった」。

 そうはいっても、このコンピレーション・アルバムにはPinball Wizardのようなタウンゼントの不朽の名曲がちりばめられているので、話をそちらに戻そう。ダルトリー曰く、タウンゼントの曲ほどやりがいのあるものはない。それ以外のものは、役者としてのキャリアでさえ、おまけみたいなものだ。 だから、ダルトリーはタウンゼントの新しい曲を歌っている時、心の高揚を抑え切れなかった。彼らは既に次のザ・フーの新譜のために2曲をトラックダウンした。一曲はベスラン学校占拠事件について、もう一曲は音楽の持つ赦しの力について。そしてそれらは、「正に” タウンゼントの不朽の名曲”だ」と彼は笑顔を見せた。

 果たしてタウンゼントとダルトリーの二人だけでザ・フーが出来るのか、疑わしく思う人もいるだろう。1978年にアルコール中毒を治すといわれる薬を飲みすぎてムーンが死に、2002年にはベーシストのジョン”Ox”エントウィッスルもムーンと似たようなロッキンな最期を迎えた。意外なことにダルトリーはその意見に賛成する。タウンゼントはふざけて彼らのことをWho2と呼んでいるし、ダルトリーもそれに対抗して「Who’s Left」といったジョークをとばす。 冗談はさておき、彼はザ・フーを復活させようとしているのではなく、より発展させようとしているのだ。彼はムーンが亡くなった時、代わりのドラマー(ケニー・ジョーンズ)で単純に穴埋めをしただけだったことを反省している。 「言ってみれば、部屋の四方の壁のうち一つがなくなったら、自由に部屋のサイズを変えることができたのに、俺達はまた同じ壁を建ててしまったんだ!キースと今ジョンが死んで、俺達はもう二度と同じ壁を建てることはできない。でも、お陰で俺とピートの可能性は無限大になったんだ」。ダルトリーは春までにアルバムを完成させたいと思っている。 これまでにザ・フーはムーン抜きのアルバムを2枚出している。1981年のFace Dancesと1982年のIt’s Hardだ。それ以降はダルトリーのTeenage Cancer Trust−彼曰く、これは彼の家庭的理由(と「ワーキングクラス出身者として、何かを還元したい」という思い)から彼にとって重要であり、またザ・フーを長年支えてきてくれた若者世代にマッチした活動である−などのチャリティ活動で時々ライブを行なってきた。ダルトリーはライブをやるために生れてきたような男(「もしタウンゼントがその気なら俺は年間300回はギグをやりたい。体力的には俺たちに全く問題ないからね、ははは!」)だが、1990年初頭からずっとスタジオから遠ざかっていた。Pete抜きではなかなか活動は難しかった。 タウンゼントは新譜のために何年も熟考していた。エントウィッスルの死によって再び炎が立ち上り、2003年にタウンゼントがインターネット児童性愛事件で逮捕されたことでその炎に油が注がれた。ダルトリーの抗弁は素早く決然としていた。彼は、タウンゼントの虐待被害者(子供たちだけでなく虐待された妻たちも含む)救済活動を例に挙げて言う。「俺はピートをよく知っている。ばかげた話だとすぐ分かった」。しかし、それは未だかつてない位の大きな危機であったとも認める。「ジョンの死のすぐ後に来たこのショックは、俺には荷が重かった」。 タウンゼントは報道陣に対し釈明をした。(伝記のために児童虐待について調べていて、一回だけそのウェブサイトにアクセスした、と。)結果的にその説明は受け入れられたが、ダルトリーは今でもあれは魔女狩りだったのでは、と疑っている。「実際、警察が俺に言ったんだ。もし彼がピートじゃなかったら、逮捕どころか取り調べもしなかったと。なぜなら、彼が一度しかそのサイトにアクセスしてないのを奴らは知っていたから」。 ダルトリーはロックオペラ「Tommy」に出てくる”Uncle Ernie”が、タウンゼントの“歪んだ子供時代”に実在した人物をベースにしていることも知っており、また、このギタリストがこういったネット上の問題に長年関心を寄せていたことにも気付いていた。「昔、彼がよく言ってた。”息子がネットを立ち上げてはポルノばかり見るので困る”」。 ダルトリーのあの有名な青い瞳が私を突き刺す。私が疑いを持っていないかを確認するように。彼は続ける。「本当に不思議なことに、ピートが答えてもらいたいと思っている疑問には誰も答えられないんだ。”なぜ政府はそれを規制しない?”銀行はクレジットカードの明細から取引相手が分かるはずだし、サーバーの記録から割り出すこともできる。クソ役人どもは何をしているんだ?理由は簡単。そこに大金が絡んでいるからさ」。 タウンゼントは警告を受けた。この事件は二人の結びつきを強め、タウンゼントの”創造の泉”と彼らの長年に渡る権威への不信感にエネルギーを与えた。 ダルトリーは最近CBE(上級勲爵士)を授与されたにも関わらず、議会の”餌を漁る豚ども”からデビッド・ケリーの”謎の死”まで、あらゆることを激しく非難する。ザ・フーが”古臭い”と呼ぶもの全てが彼を怒らせる。役人天国、階級制度、二大政党制、政治権力の黒幕−それらは未だに存在している。

 若いバンドの間での評価が高まりザ・フーはリングに戻ってきた。ダルトリーは、最近ザ・フーのような喧嘩沙汰を起こしたザ・ビーズと フランツ・フェルディナンドについて語る。また、彼は乱暴者のザ・リバティーンズを「とても気に入っている」が、「なにかが足りない」と苛立つ。 たいていは、フロントマンの問題ですよね? 「わはは!確かに。でもあいつは聡明な男だぜ」。彼は、あの常軌を逸したピート・ドハーティについて言う。「奴は何か特別なものを持っている。そう思わないか?目が離せないんだ。あれはお勉強で身につくものじゃないぜ」 「ピーター(ドハーティ)の脇を甘くしているのは、奴がコントロールされている振りをしている−もしくはコントロールされていると本人が思い込んでいる−ってことだ。だが、みんながいうように、(ドラッグをキメれば)奴にはどんなことだって出来る。彼をコントロールするなんて本当は無理だ。彼は天才なんだ。でも、俺は奴のようにがんじがらめになって生きている人間を大勢知っている。そいつらはみんな死人だな」ダルトリーは、ドハーティとザ・フーのロッキンなお騒がせ者、キース・ムーンが比較されていることを知っている。彼らの行動は世間の興味を引くが、みんなムーンの肝心な点を分かっていない、と彼は指摘する。 現在、ハリウッドがムーンを”無鉄砲野郎”として映画化したい意向を示している。しかしダルトリーは、このような映画は、このロック界で最も複雑なキャラクターの一人に新たな光を当てるものであってほしいと思っている。彼の日常の行動は、バスドラに火薬をぎっしり詰めたり全身が爆発しているようにプレイしたりする以上に凄かった。「キースは研究熱心な学者だった」と彼は言う。「彼の擬態はものすごい。奴は10分で誰かのキャラクターを全部吸い取って、そいつになりきってしまうんだ。単なる物真似じゃなくて、本当に中身にまで入り込んでしまうんだ。恐ろしいぜ!奴は少し自閉症気味のところがあったのかもしれない。昔は全然分からなかったけどね。奴の頭の中は一般人と全然違っていた」。

 彼の快活な表情にほんの一瞬、影が差した。これらの全ての音楽活動と同時に、ダルトリーには生活の中でのちょっとした息抜きの時間があった。彼はロック界で最も成功したマスの養殖業者(実際は5年前に「マスからは足を洗った」のだが)であり、最近はミミズの養殖を試みた(「悲惨だった!」)。彼の子供は成人し、しばらく俳優業もやっていない。心理学者は、年をとる前に死にたいと願っていたこの男は今、時の流れと戦っている、というかもしれない。ダルトリーは強く否定する。ザ・フーのメンバーの中で、一度もドラッグ中毒になったことのない者だけが現在まで生き延びて、バンドの中でしか見つからない真実を追い求めて続けているのだ。「ときには」彼は打ち明ける。「象を2階に押し上げるように困難なこともある。でも、その象が突然走り始めるんだ。びっくりするくらいの素早さでね・・・まるで禅の世界さ。君も知っている通り、殆どの奴らは象を2階に押し上げようなんて考えたことすらないんだ。そして、これこそザ・フーが今でも存在する価値があるということなんだと思う」。では、あなたが止めるとしたら、それはいつなんでしょう?

「俺がザ・フーについていけなくなったときだ」と彼は言う。
「その時がきたら、俺にはすぐ分かるだろう」。



Who are you?

1944/3/1:Roger Harry Daltrey、ロンドンのShepherd’s Bushで難産の末、生まれる。
1957:エルビスを聞き、木片でギターを作る。
1959:Acton grammar schoolへの入学許可を得るが、自分より上の階級の生徒たちと諍いを起こし、退学。
1962:旋盤工になったDaltreyはActon校出身のTownshendに誘われて、モッズバンド” The Detours”に加入する。” The Detours”は後に”High Numbers”、そして”The Who”となる。
1964/9:HarrowのRailway Hotelで機材を破壊する。「ロッキンな反逆者」という不変のイメージの片鱗が初めて現れた。
1965/11:”My Generation”がヒットチャート第二位となり、Daltreyがインタビュアーに答える。「30歳になったら自殺する。年寄りにはなりたくない」。
1967:最初の妻とザ・フーのどちらをとるか選択を迫られる。彼はバンドを選ぶ。
1969/8/17:Woodstockでの演奏で米国でもスーパースターになる。「会場一面、糞ヒッピー野郎だらけ。俺達は時差ぼけで、ヘトヘトで、ラリっていた」とDaltreyが今日のインタビューで言及。 1971/7/19:Heather Taylorと結婚。今でもなんとか続いている。
1975/4:映画「Tommy」での演技で、米国の新人賞を獲る。
1975/8:Ken Russellの「リストマニア」で主役を演じる。(「NGになったカットも全てあの毒々しい総天然色だったよ」。)
1976/5/3:Charlton football stadiumでのコンサートで、それまでの最大音量(120db)を記録する。
1979/5:映画「さらば青春の光と影」がモッズ・ブームを再燃させる。
1980/4:映画「McVicar」がロンドンで封切。
1983/12/16:The Who解散。
1985/7/13:ライブ・エイドでThe Who再結成。
1985/11:Keithに捧げる”Under a Raging Moon”がチャート42位に。
1989/4:ブレヒトの「三文オペラ」でストリートシンガーの役をやる。
2003:テレビ番組「Exteme History」に出演。狼の毛皮を着用して、サバイバル術の実演をする。 2004/7:ワイト島フェスティバルでTheWhoが34年ぶりに勝利のカムバックを果たす。 2004/12/31:(チャリティー活動により)CBEを授与される。「自分の国から栄誉を授かるのは嬉しい。だが俺には俺なりの表彰システムへの文句がある」と彼は言う。「(CBEの授与によって)訳の判らない財団法人に隠れている大量の金が俺のチャリティ活動に流れ込んでくるなら、結果オーライさ!」


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